
こんにちは!
中学校の時に「嫌いな教科は?」と聞かれたら、迷わず「地理です!」答えるhanasakuです。
なぜ地理嫌いな私が地名の由来に手を出したか。。。
大人になると旅行行きますよね!
で気になるわけですよ。
地名の由来
だって変な地名たくさんありますよね?
どーやったらこんな名前付けるんだってとこ笑
それにこういうちょっとした雑学を知っていると。。。
場面:ある日の彼女との旅行中






とはなりませんが(笑) 旅行のネタにはなるはず!
てなことで都道府県名の由来第一弾!
「北海道・東北地方編」を書きたいと思います。
では早速いってみましょう!
北海道の由来
- 命名された日
1869年(明治2年)8月15日に出された「太政官布告」で周知されました。
- 旧国名
蝦夷が島(えぞがしま)、蝦夷地(えぞち)など
- 地名の由来
「蝦夷」という言葉が異民族を指すことばであったため、江戸時代より変更の希望がありました。
変更に際して、幕末冒険家「松浦武四郎」が下の6つの候補をあげました。
- 日高見(ひたかみ)
- 北加伊
- 海北
- 海島
- 東北
- 千島
このうち北加伊が選ばれ、「加伊」を「海」に変更し、北海道となりました。
加伊は夷人(いじん)の自称と説明されており、夷人は未開人や野蛮人を指す言葉のようでした。そのため海に変更されたのか、単に海が近いためだったのかは不明です。
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太政官布告・・・明治維新政府の最高行政機関「太政官」が発した法令(1873年以後は全国的に効力を有するものを布告,各庁限りのものを達(たっし)または布達(ふたつ)といった)
引用:デジタル大辞泉

青森県の由来
- 命名された日
1871年(明治4年)9月
- 旧国名
陸奥(むつ)
※1869年(明治元年)に分割される前も陸奥
- 地名の由来
”青い森”があったからと言われています。
青森という地名は、江戸時代前期の1624(寛永元年)年、弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたものです。
当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われています。
引用:青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government
また、アイヌ語で「ア・オ・モリ」と分けて、「ア」は接頭語、「オ」は小高い所、「モリ」は丘という意味があるが、信憑性はほぼなしです。
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明治前の陸奥国は現在の5県分(青森県・岩手県・宮城県・福島県と秋田県一部)の大きさがあったが、戊辰戦争敗北により奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥5つの国に分割されました。

岩手県の由来
- 命名された日
1872年(明治5年)
※ただし、県域は現在と異なる
- 旧国名
陸中(りくちゅう)の一部、陸前(りくぜん)の一部、陸奥(むつ)の一部
※1869年(明治元年)に分割される前は陸奥(むつ)
- 地名の由来
「盛岡市三ツ割の東顕寺(とうけんじ)に注連縄(しめなわ)が張られた三つの大石があり、
この石は、岩手山が噴火したときにとんできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
このころ、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、
たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。
ビックリ仰天した羅刹鬼は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せませんからどうぞお許しください」というので、
三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った」。
そこでこの地を岩に手形・・・岩手と呼ぶようになったという。
引用:いわての文化情報大事典
または、単純に岩手山の溶岩のイハ(岩)とテ(出)の土地から命名されたという説もあります。
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明治維新前、岩手県は複数の藩から構成されていたため、行政区画はとてつもない速さで行わてきましたが、1876年(明治9年)5月にようやく現在の県域が決定しました。

秋田県の由来
- 命名された日
1871年(明治4年)
- 旧国名
羽後(うご)、陸中(りくちゅう)の一部
※1869年(明治元年)に分割される前は出羽(でわ)
- 地名の由来
所説ありますが、一番古く歴史に名が出てくるのは「齶田(あぎた)」であり、そこから「秋田」をとったという説があります。
秋田の名が歴史に初めて記録されるのは七世紀ごろである。
『日本書紀』の斉明紀に、四年の夏四月から三年にわたって、阿倍比羅夫(あべひらふ)が北航し、齶田(あぎた)と渟代(ぬしろ)で蝦夷(えぞ)(えみし)を征服したと書かれてある。
この齶田が、つまり秋田の地名のおこりでもある。
引用:秋田県公報ライブラリー
ちなみに「齶田(あぎた)」の「齶」は「顎(あご)」という漢字の同系にあり、土地の形から「齶田(あぎた)」と呼ばれた可能性が高いそうです。
他の説では、
水のよどむ、しめった土地。すなわち飽田(あきつた)の地だったから
引用:地名のひみつ 岩崎書店
この「飽田」が訛って、「あきた」そして「秋田」に変化したという説もあります。
またこの他にも湧き水を意味するアイからアイタが転じたとも、諸説があります。
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ちなみに秋田県は東北6県のうちで藩名が県名となった2県のうちの1つです。理由は戊辰戦争(1868年~1869年)において奥羽越列藩同盟に参加せずに、秋田藩は明治新政府の側に味方したためです。もう1県は山形県で、実は奥羽列藩同盟の側でしたが、戦争で戦力になるようなことはなく(軍事力・政治力がなかったため)、山形藩への処分は軽かったとされています。

宮城県の由来
- 命名された日
1872年(明治5年)
- 旧国名
陸前(りくぜん)、磐城(いわき)の一部
※1869年(明治元年)に分割される前は陸奥(むつ)
- 地名の由来
朝廷におさめるコメの倉庫、屯倉(みやけ)から宮城になった
引用:地名のひみつ 岩崎書店
という説のほかにも、
宮城の「宮」は鹽竈(しおがま)神社をさし、「城」は多賀城をさしており、この2つを合わせて「宮城」になったという説もあるそうです。
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屯倉(みやけ)とは、始めは「倭王権の建造物」をさしておりましたが、耕作地を含めて広く称する名称となっていきました。倭王権が多様な目的を果たすためにおいた、政治的・軍事的な支配拠点でもあります。初めて設置された屯倉は、「垂仁紀(垂仁27年)」と言われています。

山形県の由来
- 命名された日
1871年(明治4年)
※ただし、県域は現在と異なる
- 旧国名
羽前(うぜん)、羽後(うご)の一部
※1869年(明治元年)に分割される前は出羽(でわ)
- 地名の由来
山形県の「山形」は、平安初期の資料「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」に今の山形市の南側を「山方(やまがた)郷」と言ったことに由来があると言われています。
なぜここを山方と言ったかは不明ですが、今の山形市より見て南のほうには、山岳信仰で知られた蔵王、瀧山(りゅうざん)の山々があります。
そののちこの山方という地名は、いったん資料から見えなくなるのですが、南北朝時代に斯波兼頼が政治の拠点をこの地に置き政治が安定してくると、
土地売買の文書などに山形という地名が改めて見えてくるようになります。
引用:山形県ホームページ
他の説では、「山のあるほう」という意味から「山形」となったという説もあります。
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和名類聚抄とは平安時代に作られた辞書で、十巻本(24部128門)と二十巻本(32部249門)の二系統があり、どちらを原撰とみるかで論が分かれているそうです。



福島県の由来
- 命名された日
1869年(明治2年)
※ただし、県域は現在と異なる
- 旧国名
岩代(いわしろ)、磐城(いわき)の一部
※1869年(明治元年)に分割される前は陸奥(むつ)
- 地名の由来
信夫山(しのぶざん)が湖にういているようにみえ、「うく島」が「福島」になった
引用:地名のひみつ 岩崎書店
福島県ホームページでは詳細な由来は不明と記載されいます。
「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったものですが、文禄2年(1593年)ごろ、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれています。
なお、詳細な由来は不明とされています。引用:福島県ホームページ
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信夫山とは、全国でもめずらしい盆地の中にある標高270mほどの里山で、太古より故郷の象徴として愛されており、平安の昔からみちのくの憧れの山として、多くの歌枕に詠まれ、江戸・明治時代には文芸の山としても有名でした。

信夫山は「となりのトトロ」の曲「さんぽ」のモデルにもなっているそうね
まとめ
いかがだったでしょうか。
やはり土地名の多くは地理条件から付けられたところが多そうですね。
今回は北海道・東北編でしたが、全国すべて記事にしますので、ぜひまた見に来てくださいね。
それでは今日はこの辺りで!hanaskuでしたー!